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オーナーのひとり言

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忘己利他

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では、本題に…!(^^)!


一か月程前に、瀬戸内寂聴さんが出演されていたTVの対談番組を拝見しました。

お恥ずかしいことに、私は瀬戸内寂聴さんが作家さんで僧侶でいらっしゃるということしか知らず、
法話を説いて廻られているとは存じ上げませんでした。
すると、その番組の中で、寂聴さんが、素晴らしいお話をされていらっしゃいました。

忘己利他 (もうこりた)
これは、仏教の言葉で、
己(おのれ)を忘(わす)れて他(た)を利(り)するは慈悲(じひ)の極(きわ)みなり。
自分を捨てて、他に報いること。』

人間の性(さが)として、私たちはどうしても自分中心に考えてしまうことがあり、
もっと欲しい、こうして欲しい、と周りに望むことが多くなりがちである。
我欲が先立ってしまう。
そこで、自分のことは後にして、まず人に喜んでいただくことをする、
それは仏さまの行いで、そこに幸せがある…。という意味だそうです。

つまりは、我欲が先に立つような生活からは幸せは生まれないということらしい…。

当然のことなのですが、厳しいお言葉ですね…

特に、「己を忘れて」という部分が、すごく意味深い…。

これは、もっと欲しいとか、こうして欲しいという直接的な(物質的な)欲求だけではなく、
「これをすれば、いい人だと思われる」とか、
「これをすれば、人に認められる」などという“計らい”も何もないということではないだろうか…。
この“計らい”には、自分を社会にアピールしたい、自分を認めてほしい、褒めてほしいという
“自己顕示欲”も含まれるのではないか…。
この自己顕示欲は、程度の違いはあるにせよ、誰にでもある欲の一つである。
もちろん、誰でも人に認められたり、褒められたりしたい。
しかし、この気持ちが先に来てからの行いは、どうなのだろう…?
誰のために行っている善行なのか、その真意が不透明になってしまうのではないだろうか…。

つまりは、他のことだけを純粋に考えて、無心で行ったことだけが、
この“忘己利他”に値するということなのではないか…。

その為には、何が必要だろう?
当然のことながら、相手の立場に立って物事を考えることができるかどうか…。
残念なことに、私達は、相手の立場に立って考えているつもりでも、
結局は、自分側からしか物事を見れていないことが多い。
相手側からの見解を含め、物事の全体を見て行動することが大切なのではないか…。

また、“愛”・“謙虚”・“感謝”・“心”など、
形ないもの、目に見えないものの大切さがいろんなところでよく挙げられています。
寂聴さんも、番組の中で、『目に見えないモノが大切なのよとおっしゃってありましたし、
実際、私もすごく大切だと思っています。
確かに、これらは“人として”、生きていく上で重要なことであるということ、
また、これらの言葉上(辞書上)の意味は、ほとんどの方が理解していることだと思います。
しかし、これらの“言葉”だけが独り歩きしてしまい、
愛とはどういうものなのか…、謙虚とはどういうことなのか…、
感謝とは…、心を大切にするとは一体どういうことなのか…?
といった真意は、私を含め、どれくらいの方が理解できているのだろうか…。

先日も弊店のスタッフと話していたのですが、
日々の生活の中で(実践で)、これらの事を習得した者と
本や講習、または誰かの言葉などのお勉強的に(空論で)、これらの事を習得した者とでは
結果(現在の在り方・考え方)が全く異なってくるように思われる。

もちろん、誰しも初めはこれらの事もいろいろな方法で知り、学びます。
しかし、その後、その学んだことをどのように自分の意識の中に落とし消化させ、
日々の生活で活用していくかということが大切なのではないか…。

人は、自分の器の大きさでしか物事を受け入れることができないし、
自分なりの解釈でしか物事を理解することができない。
なので、同じ事を同時に教わったとしても、
受け取り方は、個々で必ずしも同じというわけではないということだ。
キレイに、物事の本質を受け入れられる人、
あるいは、自分のサイズに変化させて受け入れてしまう人、などなど。

世の中に、“完璧な人”なんていらっしゃいません。
もちろん、物事の真意(本質)をきちんと理解できているにこしたことはないのだが、
私が言いたいことは、できているかいないかが大事なのではなく、
たとえできていないとしても、学ぼうとする心が大事だということ…。
そのためには、自分を客観的に観る必要がある。
誰かに自分の短所などのあまり言われたくない部分を指摘されたり、
自分に何かトラブルが起こった場合など、
一度その事を受け入れて、
そこから、それはどういうことなのか、どうしたらよいのかということを考え行動に移すことが必要で、
そこで、言われたことやトラブルを何かのせいや誰かのせいにしたり、
またはシャットアウトして受け入れなかったり、
言われていることが理解できていたとしても、
自分の考えやプライドが先に立ち、行動に移すことができなければ、
結局は、今までの自分と同じで、そこから何も学んでいないということではないだろうか…。

いくら、“愛”や“謙虚”や“誠の心”と口にしていても
自分自身の実際の行動が伴っていなければ、そこに説得力もなにもない…。

私は、これらの目に見えない事の真意を理解することはとても難しいことだと思うし、
理解できていれば、素晴らしいなぁ…と、人格者だなぁ…と認められることも多いだろう…。
しかし、見る人が見れば、自分がどういう人間かということは見透かされてしまうのだから、
等身大の自分でいるほうがよっぽどいい。
等身大の自分を理解した上で、時間がかかったとしても、
物事の本質を一つずつ学んでいこうとすることが、
自分自身を“人として”成長させてくれる近道なのではないだろうか…。
等身大の自分、そして物事の本質を理解することができて初めて“徳を積む”ことができるのではないかと思う。

そのためには、等身大の自分を理解してくれて、
その上で自分を見てくれる人が、自分にとって本当に大切な人なのではないだろうか…。

忘己利他、
仏教のお言葉は、簡単なようで奥深く、とても勉強になりました
ありがとうございます



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